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リングイスト (外国語に堪能な人). 個人的体験に基づく外国語習得のためのガイドブック., 19. 言葉の冒険の旅. 中国本土へ渡る、1969年、広東にて

19. 言葉 の 冒険 の 旅 . 中国 本土 へ 渡る 、1969 年 、 広東 にて

1969 年 、 遂に 私 は 想像 の 中 の 中国 を 実際 に 見る こと が でき 、 標準 中国 語 と して 使わ れ て いる 環境 の 中 で 北京 官 話 を 使う こと が でき た 。 私 は 香港 から 中国 に 渡り 深川 ( シェンゼン ) と いう 小さな 村 の 近く に ある 羅 湖 橋 に 着 い た 。 鉄道 の 駅 の 待合室 から は 人民 に より 大きな 革命 的 努力 を する よう 熱烈 に 呼びかける ポスター の 背後 に 低い 屋根 の 伝統 的 な 農家 が 並 ん で いる の が かろうじて 見える だけ だっ た 。 この 静か な 村 は 今 中国 最大 の 都市 の 一 つ と なり 、 近代 的 な 高層 ビル が 立ち 並び 資本 主義 が 繁栄 する 巨大 都市 、 そして ハイテク 、 ファッション その他 の リーダー と な っ て いる 。

外国 人 で ある ため 、 私 は 広東 行き の 列車 で 当然 の こと と して 軟 座席 に 座ら せ られ た 。 そこ で は 一 杯 の 花 茶 が サービス さ れ 、 列車 が 赤土 の 丘 と 青々 し た たんぼ の 続く 広東 省 南部 を 走り抜ける 間 ずっと 乗務 員 が 定期 的 に 熱い 湯 を 足し て くれる の だっ た 。 私 は 列車 の 公共 放送 設備 から 絶え間 なく 流れ て くる 政治 的 メッセージ に 緊張 し て 耳 を 澄ま せ た 。

広東 で は 東方 賓 館 に 泊 まっ た 。 ソビエト 式 の ホテル で ヨーロッパ や 北米 から 来る ビジネスマン の ため の もの だっ た 。 日本 人 や 華僑 達 の ため の ホテル は 別に あり 、 それ は 中国 政府 が 手配 する の で ある 。

中国 は 文化 大 革命 の 混乱 の 真っ 只 中 に あっ た 。 毎朝 早く 東方 賓 館 の 宿泊 客 たち は やかましい 中国 の 革命 的 、 愛国 的 音楽 に 叩き 起こさ れ た 。 町 中 の 壁 と いう 壁 に スローガン が 掲げ られ て い た 。 この 南 の 町 に は 生暖かく 湿 っ た 空気 と 緊張 感 が 重く 漂 っ て い た 。

短 期間 滞在 する 外国 人 に とって 広東 は 楽しい 所 に 見え た 。 交通 は 極めて 少な か っ た 。 広東 に は 公園 が たくさん あり 亜熱帯 植物 が 青々 と 生い茂 っ て い た 。 生活 の ペース は ゆったり と し て 見え 、 特に 香港 の 喧騒 と は 比べもの に なら ない 。 加え て 、 伝説 的 に さえ な っ て いる 広東 料理 は 期待 を 裏切ら なか っ た 。 てごろ な 値段 で 上等 な 料理 を 食べ させ て くれる レストラン が 揃 っ て い た 。 それ でも なお 多く の 人々 の 間 に 漂う 緊張 感 と 無力 感 に は 気付か ず に い られ なか っ た 。

他国 から 来 た 外交 官 と いう こと で 、 私 に は 中国 旅行 公社 の ガイド が 付い た が 、 彼 の 役目 は 私 から 目 を 離さ ない こと だっ た 。 二 人 は 中国 語 で 話し 多く の 事柄 に 意見 を 交わし た 。 ある 日 、 彼 に どうして あの スローガン の 連発 に 耐え られる の か と 訊 い て み た 。 毛沢東 の 中国 が 産み 出し た 、 明らか に 外国 人 の 外交 官 を 案内 する と いう こと で 安全 を 確保 さ れ て いる この ガイド は こう 答え た 。 「 第 二 次 世界 大戦 中 ゲッベルス が 言 っ た よう に 、 嘘 も 千 回 言え ば 真実 に なる ん です よ ! 」 固定 観念 と は そんな もの だ ! プロパガンダ を すべて 受け入れる どころ か この 人物 は 多く の 本 を 読み 自分 自身 の 意見 を 持 っ て い た 。 私 は 本当に びっくり し た 。

1969 年 から 1970 年 に かけて 私 は 外務 担当 次官 の 資格 で 広東 国際 貿易 見本市 を 定期 的 に 訪れ た 。 そこ で の 私 の 役割 は カナダ の ビジネスマン が 中国 の 貿易 公社 の 代表 と 議論 を する 時 に 手伝い を する こと だっ た 。 文化 大 革命 の 最中 、 議論 は ビジネス に ついて と 同じ 位 政治 に ついて の 話 が 多く カナダ から の 訪問 者 は おおいに 不満 を 感じ て い た 。 私 は 中国 で 何 が 本当に 起こ っ て いる の か 理解 しよ う と し た が 、 それ は なかなか 難しい こと だっ た 。 私 は よく その 当時 中国 を 支配 し て い た 四 人 組 の リーダー 江 青 ( 毛沢東 主席 の 妻 ) に よって 思想 的 内容 を 改訂 さ れ 承認 を 受け た 様々 な 中国 の 革命 歌劇 の 最新 公演 に 招待 さ れ た 。

その 頃 、 ストックホルム で 、 カナダ は 中国 と 外交 関係 を 樹立 する ため の 交渉 に 入る ところ だっ た 。 私 は カナダ 側 が 自分 達 の 通訳 を 持た ず 中国 側 に 通訳 を 任せ て いる の を 知 っ た 。 私 は 身分 の 低い 語学 生 で は あっ た が 、 すぐ に カナダ 外務 省 の 対外 局長 に 手紙 を 書 い た 。 その 中 で 私 は 自国 の 通訳 を 使わ ない の は カナダ の イメージ を 下落 さ せる もの で あり 我々 の よう に カナダ 政府 の ため に 中国 語 を 勉強 し て いる 者 たち を がっかり さ せる もの だ と 抗議 し た 。 そして 私 より 1 年 長く 中国 語 を 学 ん で い た 同僚 の マーティン ・ コラコット を 交渉 の 場 に 就ける べき だ と 推薦 し た の で ある 。 マーティン は まもなく 交渉 の 始 まっ た ストックホルム へ と 旅立 っ た 。

1970 年 、 カナダ は 中華人民共和国 と 外交 関係 を 樹立 し た 。 その 年 の 十 月 、 私 は 第 一 次 カナダ 派遣 団 の 10 日間 の 北京 訪問 に 随行 し た 。 カナダ 大使 館 の 建物 の 場所 を 決める こと や その他 色々 な 行政 的 準備 を する の を 手伝う ため だっ た 。 灰色 の 壁 と 隠れ た 中庭 の ある この 古い 街 は 一 つ の 大きな 禁断 の 都 と いった 感じ が し た 。 宮城 ( 公式 に は 紫 禁 城 と して 知ら れ て いる ) の 規模 は 実に 壮大 で ある 。 それ を 取り囲む 胡同 と 呼ば れる 迷路 の よう な 小道 は 老 舎 の 有名 な 小説 『 駱駝 祥子 』 を 思い起こさ せる 。 私 は 心 の 中 で その 壁 の 中 で 人々 が 絵画 、 書道 、 京 劇 、 詩歌 など 、 時間 を 超越 し た 中国 文化 を 継承 し ながら 静か に 暮らし て いる 様 を 思い描 い た 。 けれども その 外側 で は 権力 者 達 が この ( 歴史 的 ) 遺産 を その 存在 理由 そのもの から 正しく ない もの と 認定 しよ う と し て い た 。

私 は 今 でも 毎朝 ウスリー 川 ( 烏 蘇 里江 ) から 来る キャビア を 食べ て い た こと を 思い出す 。 夕飯 に は 北京 ダック を 食べ た り 、1400 年 代 から 続く モンゴル 料理 の レストラン に 行 っ たり し た 。 当時 は 近代 的 な ビル など なく 街 は 何 世紀 も 前 から 少し も 変 っ て い ない よう に 見え た 。 中央 アジア の 草原 から 吹き つけ て くる 激しい 秋風 と 闘い ながら 走 っ て いく 自転車 の 他 に は これ と いった 交通 も なか っ た 。

中華人民共和国 へ 個人 で 行く の は 簡単 な こと で は なか っ た が 、 中国 訪問 を 心 から 楽し ん だ 。 70 年 代 と 80 年 代 の 初め に 二 、 三 回 訪れ た が 、 その後 2002 年 に なる まで 再び 中国 を 訪れる こと は でき なか っ た 。

それほど 長い 空白 の 時 を 経 て 中国 に 戻 っ て みる と 、 新しい 建築 物の数 の 多 さ と 国 の 変貌 ぶり に ただ 信じ られ ない 思い が し た 。 中国 語 の 学習 に あらゆる 努力 を 傾け た 結果 と 、 今日 の 中国 に 起き て いる 変化 の お蔭 で 、 やっと 北京 官 話 を 日常 的 に 使い 普通 の 中国 人 と 仕事 上 の 、 そして 個人 的 な 関係 を 広げる こと が でき そう だ 。 これ は 本当に 嬉しい こと で ある 。 外国 語 の 学習 の 目標 は 人々 と の 交流 に ある の だ から 。

19. 言葉 の 冒険 の 旅 . 中国 本土 へ 渡る 、1969 年 、 広東 にて ことば||ぼうけん||たび|ちゅうごく|ほんど||わたる|とし|かんとん| 19. An adventure of words. Crossing to mainland China, 1969 in Guangdong

1969 年 、 遂に 私 は 想像 の 中 の 中国 を 実際 に 見る こと が でき 、 標準 中国 語 と して 使わ れ て いる 環境 の 中 で 北京 官 話 を 使う こと が でき た 。 とし|ついに|わたくし||そうぞう||なか||ちゅうごく||じっさい||みる||||ひょうじゅん|ちゅうごく|ご|||つかわ||||かんきょう||なか||ぺきん|かん|はなし||つかう|||| 私 は 香港 から 中国 に 渡り 深川 ( シェンゼン ) と いう 小さな 村 の 近く に ある 羅 湖 橋 に 着 い た 。 わたくし||ほんこん||ちゅうごく||わたり|ふかがわ||||ちいさな|むら||ちかく|||ら|こ|きょう||ちゃく|| 鉄道 の 駅 の 待合室 から は 人民 に より 大きな 革命 的 努力 を する よう 熱烈 に 呼びかける ポスター の 背後 に 低い 屋根 の 伝統 的 な 農家 が 並 ん で いる の が かろうじて 見える だけ だっ た 。 てつどう||えき||まちあいしつ|||じんみん|||おおきな|かくめい|てき|どりょく||||ねつれつ||よびかける|ぽすたー||はいご||ひくい|やね||でんとう|てき||のうか||なみ|||||||みえる||| この 静か な 村 は 今 中国 最大 の 都市 の 一 つ と なり 、 近代 的 な 高層 ビル が 立ち 並び 資本 主義 が 繁栄 する 巨大 都市 、 そして ハイテク 、 ファッション その他 の リーダー と な っ て いる 。 |しずか||むら||いま|ちゅうごく|さいだい||とし||ひと||||きんだい|てき||こうそう|びる||たち|ならび|しほん|しゅぎ||はんえい||きょだい|とし||はいてく|ふぁっしょん|そのほか||りーだー|||||

外国 人 で ある ため 、 私 は 広東 行き の 列車 で 当然 の こと と して 軟 座席 に 座ら せ られ た 。 がいこく|じん||||わたくし||かんとん|いき||れっしゃ||とうぜん|||||なん|ざせき||すわら||| そこ で は 一 杯 の 花 茶 が サービス さ れ 、 列車 が 赤土 の 丘 と 青々 し た たんぼ の 続く 広東 省 南部 を 走り抜ける 間 ずっと 乗務 員 が 定期 的 に 熱い 湯 を 足し て くれる の だっ た 。 |||ひと|さかずき||か|ちゃ||さーびす|||れっしゃ||あかつち||おか||あおあお|||||つづく|かんとん|しょう|なんぶ||はしりぬける|あいだ||じょうむ|いん||ていき|てき||あつい|ゆ||たし||||| 私 は 列車 の 公共 放送 設備 から 絶え間 なく 流れ て くる 政治 的 メッセージ に 緊張 し て 耳 を 澄ま せ た 。 わたくし||れっしゃ||こうきょう|ほうそう|せつび||たえま||ながれ|||せいじ|てき|めっせーじ||きんちょう|||みみ||すま||

広東 で は 東方 賓 館 に 泊 まっ た 。 かんとん|||とうほう|ひん|かん||はく|| ソビエト 式 の ホテル で ヨーロッパ や 北米 から 来る ビジネスマン の ため の もの だっ た 。 そびえと|しき||ほてる||よーろっぱ||ほくべい||くる|びじねすまん|||||| 日本 人 や 華僑 達 の ため の ホテル は 別に あり 、 それ は 中国 政府 が 手配 する の で ある 。 にっぽん|じん||かきょう|さとる||||ほてる||べつに||||ちゅうごく|せいふ||てはい||||

中国 は 文化 大 革命 の 混乱 の 真っ 只 中 に あっ た 。 ちゅうごく||ぶんか|だい|かくめい||こんらん||まっ|ただ|なか||| 毎朝 早く 東方 賓 館 の 宿泊 客 たち は やかましい 中国 の 革命 的 、 愛国 的 音楽 に 叩き 起こさ れ た 。 まいあさ|はやく|とうほう|ひん|かん||しゅくはく|きゃく||||ちゅうごく||かくめい|てき|あいこく|てき|おんがく||たたき|おこさ|| 町 中 の 壁 と いう 壁 に スローガン が 掲げ られ て い た 。 まち|なか||かべ|||かべ||すろーがん||かかげ|||| この 南 の 町 に は 生暖かく 湿 っ た 空気 と 緊張 感 が 重く 漂 っ て い た 。 |みなみ||まち|||なまあたたかく|しめ|||くうき||きんちょう|かん||おもく|ただよ||||

短 期間 滞在 する 外国 人 に とって 広東 は 楽しい 所 に 見え た 。 みじか|きかん|たいざい||がいこく|じん|||かんとん||たのしい|しょ||みえ| 交通 は 極めて 少な か っ た 。 こうつう||きわめて|すくな||| 広東 に は 公園 が たくさん あり 亜熱帯 植物 が 青々 と 生い茂 っ て い た 。 かんとん|||こうえん||||あねったい|しょくぶつ||あおあお||おいしげ|||| 生活 の ペース は ゆったり と し て 見え 、 特に 香港 の 喧騒 と は 比べもの に なら ない 。 せいかつ||ぺーす||||||みえ|とくに|ほんこん||けんそう|||くらべもの||| 加え て 、 伝説 的 に さえ な っ て いる 広東 料理 は 期待 を 裏切ら なか っ た 。 くわえ||でんせつ|てき|||||||かんとん|りょうり||きたい||うらぎら||| てごろ な 値段 で 上等 な 料理 を 食べ させ て くれる レストラン が 揃 っ て い た 。 ||ねだん||じょうとう||りょうり||たべ|さ せ|||れすとらん||そろ|||| それ でも なお 多く の 人々 の 間 に 漂う 緊張 感 と 無力 感 に は 気付か ず に い られ なか っ た 。 |||おおく||ひとびと||あいだ||ただよう|きんちょう|かん||むりょく|かん|||きづか|||||||

他国 から 来 た 外交 官 と いう こと で 、 私 に は 中国 旅行 公社 の ガイド が 付い た が 、 彼 の 役目 は 私 から 目 を 離さ ない こと だっ た 。 たこく||らい||がいこう|かん|||||わたくし|||ちゅうごく|りょこう|こうしゃ||がいど||つけい|||かれ||やくめ||わたくし||め||はなさ|||| 二 人 は 中国 語 で 話し 多く の 事柄 に 意見 を 交わし た 。 ふた|じん||ちゅうごく|ご||はなし|おおく||ことがら||いけん||かわし| ある 日 、 彼 に どうして あの スローガン の 連発 に 耐え られる の か と 訊 い て み た 。 |ひ|かれ||||すろーがん||れんぱつ||たえ|||||じん|||| 毛沢東 の 中国 が 産み 出し た 、 明らか に 外国 人 の 外交 官 を 案内 する と いう こと で 安全 を 確保 さ れ て いる この ガイド は こう 答え た 。 もうたくとう||ちゅうごく||うみ|だし||あきらか||がいこく|じん||がいこう|かん||あんない||||||あんぜん||かくほ||||||がいど|||こたえ| 「 第 二 次 世界 大戦 中 ゲッベルス が 言 っ た よう に 、 嘘 も 千 回 言え ば 真実 に なる ん です よ ! だい|ふた|つぎ|せかい|たいせん|なか|||げん|||||うそ||せん|かい|いえ||しんじつ||||| 」 固定 観念 と は そんな もの だ ! こてい|かんねん||||| プロパガンダ を すべて 受け入れる どころ か この 人物 は 多く の 本 を 読み 自分 自身 の 意見 を 持 っ て い た 。 |||うけいれる||||じんぶつ||おおく||ほん||よみ|じぶん|じしん||いけん||じ|||| 私 は 本当に びっくり し た 。 わたくし||ほんとうに|||

1969 年 から 1970 年 に かけて 私 は 外務 担当 次官 の 資格 で 広東 国際 貿易 見本市 を 定期 的 に 訪れ た 。 とし||とし|||わたくし||がいむ|たんとう|じかん||しかく||かんとん|こくさい|ぼうえき|みほんいち||ていき|てき||おとずれ| そこ で の 私 の 役割 は カナダ の ビジネスマン が 中国 の 貿易 公社 の 代表 と 議論 を する 時 に 手伝い を する こと だっ た 。 |||わたくし||やくわり||かなだ||びじねすまん||ちゅうごく||ぼうえき|こうしゃ||だいひょう||ぎろん|||じ||てつだい||||| 文化 大 革命 の 最中 、 議論 は ビジネス に ついて と 同じ 位 政治 に ついて の 話 が 多く カナダ から の 訪問 者 は おおいに 不満 を 感じ て い た 。 ぶんか|だい|かくめい||さい なか|ぎろん||びじねす||||おなじ|くらい|せいじ||||はなし||おおく|かなだ|||ほうもん|もの|||ふまん||かんじ||| 私 は 中国 で 何 が 本当に 起こ っ て いる の か 理解 しよ う と し た が 、 それ は なかなか 難しい こと だっ た 。 わたくし||ちゅうごく||なん||ほんとうに|おこ||||||りかい||||||||||むずかしい||| 私 は よく その 当時 中国 を 支配 し て い た 四 人 組 の リーダー 江 青 ( 毛沢東 主席 の 妻 ) に よって 思想 的 内容 を 改訂 さ れ 承認 を 受け た 様々 な 中国 の 革命 歌劇 の 最新 公演 に 招待 さ れ た 。 わたくし||||とうじ|ちゅうごく||しはい|||||よっ|じん|くみ||りーだー|こう|あお|もうたくとう|しゅせき||つま|||しそう|てき|ないよう||かいてい|||しょうにん||うけ||さまざま||ちゅうごく||かくめい|かげき||さいしん|こうえん||しょうたい|||

その 頃 、 ストックホルム で 、 カナダ は 中国 と 外交 関係 を 樹立 する ため の 交渉 に 入る ところ だっ た 。 |ころ|すとっくほるむ||かなだ||ちゅうごく||がいこう|かんけい||じゅりつ||||こうしょう||はいる||| 私 は カナダ 側 が 自分 達 の 通訳 を 持た ず 中国 側 に 通訳 を 任せ て いる の を 知 っ た 。 わたくし||かなだ|がわ||じぶん|さとる||つうやく||もた||ちゅうごく|がわ||つうやく||まかせ|||||ち|| 私 は 身分 の 低い 語学 生 で は あっ た が 、 すぐ に カナダ 外務 省 の 対外 局長 に 手紙 を 書 い た 。 わたくし||みぶん||ひくい|ごがく|せい||||||||かなだ|がいむ|しょう||たいがい|きょくちょう||てがみ||しょ|| その 中 で 私 は 自国 の 通訳 を 使わ ない の は カナダ の イメージ を 下落 さ せる もの で あり 我々 の よう に カナダ 政府 の ため に 中国 語 を 勉強 し て いる 者 たち を がっかり さ せる もの だ と 抗議 し た 。 |なか||わたくし||じこく||つうやく||つかわ||||かなだ||いめーじ||げらく||||||われわれ||||かなだ|せいふ||||ちゅうごく|ご||べんきょう||||もの|||||||||こうぎ|| そして 私 より 1 年 長く 中国 語 を 学 ん で い た 同僚 の マーティン ・ コラコット を 交渉 の 場 に 就ける べき だ と 推薦 し た の で ある 。 |わたくし||とし|ながく|ちゅうごく|ご||まな|||||どうりょう|||||こうしょう||じょう||つける||||すいせん||||| マーティン は まもなく 交渉 の 始 まっ た ストックホルム へ と 旅立 っ た 。 |||こうしょう||はじめ|||すとっくほるむ|||たびだ||

1970 年 、 カナダ は 中華人民共和国 と 外交 関係 を 樹立 し た 。 とし|かなだ||ちゅうかじんみんきょうわこく||がいこう|かんけい||じゅりつ|| その 年 の 十 月 、 私 は 第 一 次 カナダ 派遣 団 の 10 日間 の 北京 訪問 に 随行 し た 。 |とし||じゅう|つき|わたくし||だい|ひと|つぎ|かなだ|はけん|だん||にち かん||ぺきん|ほうもん||ずいこう|| カナダ 大使 館 の 建物 の 場所 を 決める こと や その他 色々 な 行政 的 準備 を する の を 手伝う ため だっ た 。 かなだ|たいし|かん||たてもの||ばしょ||きめる|||そのほか|いろいろ||ぎょうせい|てき|じゅんび|||||てつだう||| 灰色 の 壁 と 隠れ た 中庭 の ある この 古い 街 は 一 つ の 大きな 禁断 の 都 と いった 感じ が し た 。 はいいろ||かべ||かくれ||なかにわ||||ふるい|がい||ひと|||おおきな|きんだん||と|||かんじ||| 宮城 ( 公式 に は 紫 禁 城 と して 知ら れ て いる ) の 規模 は 実に 壮大 で ある 。 みやぎ|こうしき|||むらさき|きん|しろ|||しら|||||きぼ||じつに|そうだい|| それ を 取り囲む 胡同 と 呼ば れる 迷路 の よう な 小道 は 老 舎 の 有名 な 小説 『 駱駝 祥子 』 を 思い起こさ せる 。 ||とりかこむ|こどう||よば||めいろ||||こみち||ろう|しゃ||ゆうめい||しょうせつ|らくだ|さちこ||おもいおこさ| 私 は 心 の 中 で その 壁 の 中 で 人々 が 絵画 、 書道 、 京 劇 、 詩歌 など 、 時間 を 超越 し た 中国 文化 を 継承 し ながら 静か に 暮らし て いる 様 を 思い描 い た 。 わたくし||こころ||なか|||かべ||なか||ひとびと||かいが|しょどう|けい|げき|しいか||じかん||ちょうえつ|||ちゅうごく|ぶんか||けいしょう|||しずか||くらし|||さま||おもいえが|| けれども その 外側 で は 権力 者 達 が この ( 歴史 的 ) 遺産 を その 存在 理由 そのもの から 正しく ない もの と 認定 しよ う と し て い た 。 ||そとがわ|||けんりょく|もの|さとる|||れきし|てき|いさん|||そんざい|りゆう|その もの||まさしく||||にんてい|||||||

私 は 今 でも 毎朝 ウスリー 川 ( 烏 蘇 里江 ) から 来る キャビア を 食べ て い た こと を 思い出す 。 わたくし||いま||まいあさ||かわ|からす|よみがえ|さとえ||くる|||たべ||||||おもいだす 夕飯 に は 北京 ダック を 食べ た り 、1400 年 代 から 続く モンゴル 料理 の レストラン に 行 っ たり し た 。 ゆうはん|||ぺきん|||たべ|||とし|だい||つづく|もんごる|りょうり||れすとらん||ぎょう|||| 当時 は 近代 的 な ビル など なく 街 は 何 世紀 も 前 から 少し も 変 っ て い ない よう に 見え た 。 とうじ||きんだい|てき||びる|||がい||なん|せいき||ぜん||すこし||へん|||||||みえ| 中央 アジア の 草原 から 吹き つけ て くる 激しい 秋風 と 闘い ながら 走 っ て いく 自転車 の 他 に は これ と いった 交通 も なか っ た 。 ちゅうおう|あじあ||そうげん||ふき||||はげしい|あきかぜ||たたかい||はし||||じてんしゃ||た||||||こうつう||||

中華人民共和国 へ 個人 で 行く の は 簡単 な こと で は なか っ た が 、 中国 訪問 を 心 から 楽し ん だ 。 ちゅうかじんみんきょうわこく||こじん||いく|||かんたん|||||||||ちゅうごく|ほうもん||こころ||たのし|| 70 年 代 と 80 年 代 の 初め に 二 、 三 回 訪れ た が 、 その後 2002 年 に なる まで 再び 中国 を 訪れる こと は でき なか っ た 。 とし|だい||とし|だい||はじめ||ふた|みっ|かい|おとずれ|||そのご|とし||||ふたたび|ちゅうごく||おとずれる||||||

それほど 長い 空白 の 時 を 経 て 中国 に 戻 っ て みる と 、 新しい 建築 物の数 の 多 さ と 国 の 変貌 ぶり に ただ 信じ られ ない 思い が し た 。 |ながい|くうはく||じ||へ||ちゅうごく||もど|||||あたらしい|けんちく|もののかず||おお|||くに||へんぼう||||しんじ|||おもい||| 中国 語 の 学習 に あらゆる 努力 を 傾け た 結果 と 、 今日 の 中国 に 起き て いる 変化 の お蔭 で 、 やっと 北京 官 話 を 日常 的 に 使い 普通 の 中国 人 と 仕事 上 の 、 そして 個人 的 な 関係 を 広げる こと が でき そう だ 。 ちゅうごく|ご||がくしゅう|||どりょく||かたむけ||けっか||きょう||ちゅうごく||おき|||へんか||おかげ|||ぺきん|かん|はなし||にちじょう|てき||つかい|ふつう||ちゅうごく|じん||しごと|うえ|||こじん|てき||かんけい||ひろげる||||| これ は 本当に 嬉しい こと で ある 。 ||ほんとうに|うれしい||| 外国 語 の 学習 の 目標 は 人々 と の 交流 に ある の だ から 。 がいこく|ご||がくしゅう||もくひょう||ひとびと|||こうりゅう|||||